トパアズ色の奇跡

レモン哀歌。高村光太郎の作である「智恵子抄」から、しばしば教科書にも取り上げられることが多いこの一節をご存知の方は多いのではないかと思う。私の書棚にも静かに収まっている。ご興味がおありのかたはぜひこの節だけではなく、この本をはじめのページから繙いてみていただければ、と思う。もしあなたが、高次脳機能障害の方の介護者、見守る方・・であれば、彼の献身的、いや、こんな言葉では表せないほどの、伴侶たる智恵子を助け、見守るそのすべての行いに身が引き締まる思いがするのではないか、と勝手ながら想像する。

もしあなたが、障害を持った本人であるならば、彼の伴侶、智恵子に嫉妬を感じるかもしれない。(勝手ですが・・・)私はこちらの立場であるが、嫉妬すること、それさえも許されないかもしれない。何度読み返してみても行間に光のあふれるのを見、それは何度繰り返しても薄れることはない。私はこの一節をハンカチなしで頭の中で反芻することさえ出来ない。

もしあなたが、幸福にも障害や、病気、災厄に現在無縁の方であれば、そこには純粋な無償の愛を見つけることだろう。絆のありかたを見つけることだろう。

さて、「レモン哀歌」の節に話を戻すが、智恵子を一瞬の間だけかもしれないが正気に引き戻したレモン。私は、高次脳機能障害という障害を負ってから、まともな思考、というものが残念ながらあまり出来ていないようだ。脳へのダメージは軽症、といいながらも確実に私の思考を邪魔して、間違いを生んでいる。しかし、このレモンのしずくのように、私を本来の私に引き戻してくれる時がしばしば訪れる。このとき、私は私であるほかに、客観的に私の言動を見守り、時に修正する存在として自身を見つめる存在となる。「普通」になれるときがあるのである。そうでないときの私は、常に自分の言動をことごとく批判する。私が常にやりきれない無力感、罪悪感、自己否定に苛まれているのは、こういう理由だ。

そして私は探し続ける。きらきらと光を跳ね返す、そのレモンのしずくを。

しかし、一方で私はこれもわかっている。智恵子を、まさに正気の世界に引き戻したのはレモンのしずくだけではなく、それを通じてのどを潤した高村光太郎の、何か、であるということを。

そればかりは、求めても私には得られないものなのかもしれない。