家族と結婚と昔の文学

結婚。全くの他人、全く違う人生を生きてきた二人が「家族」になること。これは、とっても無理の多いことだと思う。だって、他人ですから。友達になることは簡単だ。恋人でいるのも難しくない。相手のマイナス面はオミットしあえばいいだけのことだから。
しかし、家族という関係では、いやでも悪いところが見えてくる。だから家族になるのは大変なことだ。

最近、少し前の文学をいくつか読んでいるが、結婚ということの重大性が現代になって相当希薄になっているように感じた。今では
家族>>>>>>夫婦>恋人>友達
といったところだろう。式で誓い合った言葉は口から出任せか、健やかなるときも病めるときも、というのは虚言か。そう思いたくなるような話をいくつか聞く。アメリカなどで、離婚の際の契約書を取り交わして結婚するなどというのは愚の骨頂。

家族なのだから、無理を言うかもしれない。家族だから、心から共に喜べる。そして家族なのだから、頼れる。頼られたい。
そういう当たり前だけれども大切な常識、伝統が戻ってくるのはいつになるのだろうか。

今の日本には危機感が足りないと思う。戦争もなく貧困も(表面的には)なく、誰もが「普通」であることを軽んじている。元来、「普通」であることはありがたいことなのだ。漢字で書けばわかるように「有り難い」こと。そういったことに目を向けず、くだらない犯罪や論争ばかり起きている状況は、精神の貧困さを如実に表しているのではないか。精神が貧困なのは誰のせいか。学校教育でもない、親だけの問題でもない。すべての人間関係が希薄になっているからではないか。人としてのプライドの低さが原因ではないか。

かつては、クラスメイトの名誉のために、体を張ったこともあった。そして、大勢が共に努力して、共に苦しみを共有し、成果を皆で喜び合ったこともあった。

戦争があれば、共に戦った戦友は、家族同様だという。「君もVF81部隊にいたのか!」と、見も知らぬ人が抱き合ったりもする。今の日本にはそういうものがない。メンタルヘルスの問題を一人で抱え込む人が増えているのも、人間関係の希薄さが原因ではないだろうか。

人が、真のヒューマニズムを身につけられる日がくればいい、と心待ちにしている。私が親友と呼べる人は片手で足りるくらいしかいない。これは少ないけれどとてもPreciousなものだと思う。

「人間皆兄弟」、と私は幼稚園で教えられた。聖ホーリネス幼稚園だったかな。その20年後に教会でどんな人生でも共にする誓いをあげた。しかし20年前の私の常識は裏切られた。
人が、誇りを持って生きるために。人が、信頼の元に共存できるために。人であることを自慢できるために。
今できることは何なのだろう。それとも人類の覇権の時代は終わったのかもしれない。