時流によせて

年年歳歳花相似、歳歳年年人不同。

時の経過とは不思議なものである。ある一時期にこの上なく重要に思えた事柄や、真剣に考えていたことなどが、永い時の隔壁を透かして見ると、また違った色に見えてくるといった経験は誰しもが持っていることだろう。

ひとの心は自浄作用を持っていて、時の経過と共に考え、気持ちは色褪せる。あたかも川の流れに翻弄される石が、その流れの発した源流では角張っているのに、流れに洗われ、ほかの石との相互作用によってその角を失っていくように。下流の川原に転がる石を見ていただきたい。まことに柔和な顔をしていると共に、かつて在った姿をその同じ表情の石の中に見出すことは既にできなくなってしまっているだろう。

人にとって一つの考えや気持ち、信念を保つことは斯様に難しい。
地球史のスケールから見れば限りなく微視的な刹那、刹那を生きる人類が、自らのタイムスケールを超えて不変であるもの、たとえば最高の硬さを誇るダイヤモンドや、高い科学的安定性を持つ金、といったものに普遍的な価値を見出す理由も、この諸行無常とも言うべき移ろい易さ、またその変化の不可逆性を知らず知らずのうちに認識しているからではないか。

時流の川も氾濫することが時としてある。清流はその姿を変え、数々の乱流を生み、川底に堆積した泥を巻き上げ、その流れを醜い褐色に濁らせる。しかし、嵐が通り過ぎたとき、氾濫が治まったときには底に厚く堆積していた泥は遥か下流に流れ去り、以前にも増して透明な清流がよみがえる。

かくして心に積もった憎しみや不幸は時に洗い流されていく。歴史のひとつになっていく。

冬になると川は凍る。凍るのはその表面であり、内側には氷点下に冷え切った水がなおも流れつづけている。川は静かであり、表面からはその流れを伺うことはできない。そして再び春が訪れたときには、表面を覆う氷は音を立てて瓦解し、その流れに飲み込まれて程なく融解し、流れの一部となる。

私は今、帷子川のほとりで、その流れに時を想う。流れに抗うことをやめて、自らの心を帷子川の緩流に委ねると、まるで肩の荷を下ろしたときのような、不思議な安堵感に包まれてくる。しびれた肩に再び血液がめぐるときのようなむずがゆさを感じる。
そうか、色褪せ、ひびの入ったこころを修復するのもまた、時の流れなのかな。