モルダウ その1

 今際に彼女は「音楽が聴きたい」と、消え入るような声で囁いた。1996年3月22日午前2時30分。声を出すのも、つらいようだった。担当の医師は、彼女の病状を詳しくは告げなかったが、私は彼女の見かけより強い心を信じて、その状況を本人に話した。彼女は自分の病状が、考えていたよりも少しだけ悪いことにすこしショックを受けた様子であったが、ほどなく受け入れることができたようだった。音楽がひとときの安らぎになれば、と思った。「何がいい?」私は尋ね、声を聞き取るために顔を近づける。彼女はやはり小さな声で、「モルダウ」と答えた。私はもう少し明るい曲を勧めようかと考えたが、思いとどまった。ひと時ををモルダウの悠久の流れに身を任せるのも悪くないだろう・・

つづく