夢九夜

第八夜

こんな夢を見た。


とても華奢な女が左腕から血をたくさん流して花壇の隅に座っていた。
傍を行く人はその姿をみて驚いていたが、足を止めることなくみな去っていった。私はたまたま休日に街へでていて、その女を見てぎょっとした。
見たところ傷は浅く、異物も入っていなかったので私はポケットからハンカチーフを取り出して傷を圧迫して縛った。五分ほど様子を見ていると、血は止まったようなので「病院に行って、縫ってもらってからしっかりと消毒してもらいなさい」と女に云った。女を確りと見てみると、とても長い睫を伏せて、漆黒の瞳に涙を湛えている。その間女は一言も口をきかなかった。「お嬢さん」私は女の両肩に手を置いて、黒い瞳を覗き込むように見た。吸い込まれそうな黒い瞳だった。顔色は青白く、肌に艶はなかった「病院はわかるかね、もし分からないのであれば私のクリニックに来なさい。連れて行ってあげよう」女は伏せた睫をさらに伏せて、小さく頷いた。


私は往来に立って手を上げてタクシーを止めた。女のいかにも細い腕を取って、タクシーに乗せると、「平塚クリニックへ行ってくれ」と運転手に云った。「分かりました、シートベルトをお願いします」というから、私と女はベルトを締めて、10分ほどのドライブをすることになった。その間、女のほうを見ると相変わらず長い睫に涙を湛えている。息の音を聞いていると浅くて速い呼吸だった。これはただの怪我ではないな、と私は思って、クリニックに到着するのを待った。


古ぼけた建物であった。しかし3階建てのコンクリート作りでしっかりと建っていた。外壁にはつたが張り、石造りの階段は雨風に打たれて丸みを帯びていた。
私がクリニックのドアを開けると、消毒薬のにおいがした。
「今日は休診日なんだ、だから看護婦も休みだし、事務員も休みだ。」そういいながら診察室に向かって歩く足取りはとても落ち着いた、どっしりとした歩みであった。「さあ、診察室に入りなさい」そういいながら私はロッカーから白衣を取り出してニットの上から羽織った。たちまち私は医者になった。


診察室に女を招きいれると、傷をイソジンで消毒し縫い合わせた後、ソフラチュールをあてて、ゲンタシン軟膏を塗ったガーゼを当て、包帯を巻いた。そうしているうちに、女のほうから声が聞こえる。「あ・りがとう・・」女は消え入るような声でささやいた。「傷は大したことはなかった。安心していいよ。ただし、消毒と抗生物質はきちんとしなさい」私が声をかけると、女は小さく頷いた。「ただし」私は切り出した。「さっきから君の呼吸を聞いていて、脈も取ったが、君はしばらくここに入院だ。点滴をさせてもらうよ」と云って私は女の干からびたように細い腕をぱしぱしと叩いて、手馴れた手つきで翼状針を腕の外側に刺して、テープで固定した。点滴台にラクテートリンゲル液にジアゼパムアナフラニールを混ぜた物をぶら下げた。


「医者もね、長くやっているといろんな患者を診るものさ」私は話しかけるでもなく空間に向かって話した。「傷を負った患者、病気で高熱のある患者、伝染病の患者、骨を折った患者、心を病んだ患者・・・」「君の名前は?、カルテを作りたいんでね、協力してくれたまえ」尋ねると小さな声で「小川ひな・・・です」と答える。私はカルテに名前を書いて、「住所は?この辺の人かね?」と聞くが「違います」とだけ答えて、後は何度尋ねても首を横に振るだけであった。


「とりあえず、今日のところは休みなさい」私はそういって女を二階の病室に案内した。「明日になれば看護婦も来るし、安心して休みなさい」そういって私はベッドを片付けて女を寝かせた。「しばらく、眠ります。でも眠っているときは部屋に入らないでください」さっきまでとは違って、女は決然とした目で私を見据えてそう云った。「わかった、入らないよ。困ったことがあったらナースコールを押しなさい」そういって私はドアを閉め、診察室に戻った。不思議な女だと思った。


そうして何日か経った。女は、傷は見る見る回復していった。入院から8日が経ったころ、診察室へ入ってきて「ありがとうございました、私は明日退院します」と云うから「帰る場所はあるのかね」と聞くと「たくさんありますよ」と云ったきりで女は診察室を出て行った。不思議な女だ、と思っていたが、診る患者が何人もいたので、それ以上は聞かずに「傷も治ったころだし、そろそろ退院でもいいかな」と云ってまた診察に戻った。


あくる日の未明、私は女のことが気になって病室へ行き、「入りますよ」と云って戸を叩いたが何の返事もない。私はそろそろとドアを開けると、ベッドが綺麗に片付けられて、傍らに女が立っていた。「綺麗な朝焼け。」と女は云い、ドアに近づいてきょとんとしている私の傍を通り抜けていった。そのまま飛び跳ねるようにクリニックのドアに差し掛かると、ドアは自然に開き、真っ赤な朝焼けの光を招き入れた。廊下も、階段も、診察室のドアもすべてが紅く燃えていた。その光の中を女は通り両手を広げると、両手は見る見るうちに翼へと変わっていった。翼の一部に縫った跡が見えた。大きく翼を羽ばたかせると女は朝焼けの空に飛び立っていった。真っ黒に見える女の後姿はどんどん小さくなっていった。


女の向かっていった先には、鳳の群れが見えた。かつて人間の女であった鳳は、その群れに向かって翼を羽ばたかせていった。そして、群れに混ざると、鳳の群れは湘南の海の上を南へ向かって飛んでいった。何年も医者をやっていると、いろいろな患者を診るものだ、と嘆息しながら、赤い空を悠々と去ってゆく鳳の群れに見とれていた。鳳の群れが見えなくなると、私は診察室に入って、白衣を脱いで煙草に火をつけた。煙を胸いっぱいに吸い込むと、手足がしびれ、眩暈がした。今日はいいことがあるだろうなと思った。