断片その4だっけ?

第二章

田原の狭いアパートで4人で鍋をつついていた。材料はみんなが適当に買ってきたもので、一種闇なべの様相を呈していた。
「当時のロシア社会を描いていると言う点では二人は共通なんだ、ただドストエフスキーは主人公一人の目を通して、主人公の台詞を使ってすべてを表現しているんだ。だから読みやすくて好きなんだよね。」
私たちはトルストイドストエフスキーを比較していろいろ話していた。きっかけは冴島と恭子の課題のレポートだった。
「あら、あなた『アンナ・カレーニナ』読んでないでしょ。」
冴島が痛いところをつく。
「実は・・・読んでない。」
私は「戦争と平和」を途中で放棄して、以来トルストイは読んでいないことを白状した。いい加減な論評をしていたのが恥ずかしかった。
ドストエフスキーは、社会の底辺からの視点で表現してるよね、トルストイは貴族階級が多いけど」
田原はつぶやく。
「あー、ソーネチカみたいな人はいないのかな・・」
私がぶつぶつ言っていると田原が「ないない」と首を振る。そんな話をしている間、恭子は一人黙々と鍋の中をかき回して、魚介類を探して食べていた。
「恭子はどう?」
冴島が恭子に鋭く問いを投げかける。突然話を振られた恭子はあたふたしている。
「すこしは話題に参加しなさいよ、それにあんたのレポートでもあるんだから。」
恭子はすこし困った顔をしながら恥ずかしそうに言った。
「んー、『白夜』、は読んだことがあるんだけれど、あれは小品だから話にちょっとついていけなくて・・・それに・・」
「それに、どうしたの?」
私が尋ねると恭子は小首をかしげてつぶやいた
「社会派、の小説はあんまり好きじゃなくて。やっぱり人を描いたのが好きだな、『若きウェルテル』とかヘッセとかさ。」
そういいながら、グラスのビールを空けた。みんなのグラスはすべてちぐはぐ。私など湯飲みでビールを飲んでいるくらいだ。男の一人暮らしだから仕方ないだろう。
「俺も好きだよ、『デミアン』とか。」
田原が軽く助け舟を出す。恭子はすこし安心して答えた。
「『デミアン』だったら、前半と後半、どっちが好き?私は後半なんだけど、『ゲルトルート』もよかったよ。内面をどんどん掘り下げていくような感じで、社会も広いけれど人の心の内側もとっても広いんだよ・・それでね・・」
恭子はやっと得意な話になったからか、饒舌だ。鍋は汁が煮詰まっていったが一向に減る様子はない。はっきり言っていろんな材料を入れすぎてわけのわからない味だった。美味しくなかった。
私は恭子の趣味を聞いて「ふーん」と思った。彼女らしいな、と感じた。
「だったら、ドストエフスキーなら簡単に読めると思うよ。『白夜』読んだならわかると思うけれど、『罪と罰』なんか、楽しめると思う。初めに読むのが『地下室の手記』だったりすると敬遠しちゃうかもしれないけど・・」
私が口をはさむと、恭子は話をやめて聞いた
「それって、厚ぼったい本でしょ、タイトルも難しそうだから敬遠してたんだけど簡単に読めるかな。」
「うん、読めると思う。今度貸してあげるよ。」
「じゃあ、今度持ってきて。」
私は本を貸す約束をして、鍋を見つめながらウーロン茶を飲んだ。今日はバイクで来ているのでお酒は飲めない。鍋は一向に減る気配がない。そのとき田原が冷蔵庫から何か持ってきて鍋に入れ、水を継ぎ足した。たちまち鍋はキムチ鍋となって、食欲をそそる香りが部屋にたちこめた。
「あなた、うまいこと考えたわね。」
冴島が言う。
「一人暮らしの知恵だよ、これだけでもごはんが食べられる。」
冴島は実家から通学しているので、感心しながら鍋を見つめていた。それからは鍋も順調に減り始め、私もビールに手を伸ばした。
「今日泊めてってくれ。」
「やだよ、酒はだめだ、それで我慢しとけ。」
どこからかノンアルコールビールを持ってきて私に放りながら田原が言う。
そんなことを話しているうちに時間が過ぎていく。そろそろ終電の時間だ。
「あ、私たちそろそろ終電だから、帰るね。」
冴島が恭子の肩に手を置いて言う。恭子は時計を見て大きく頷いた。
「じゃ、そろそろお開きにしますか。」
田原が立ち上がって言った。
「おれが駅まで送っていくから、お前片付け頼んだよ。」
田原はなんとなくふてくされた顔で、手を振って「行け」と言ったきりだった。
私はそういって二人をつれて、高田馬場駅に向かった。大きなバイクは押して歩くのは大変だったが、汗をかきながら二人を送っていった。トレーニングだと思って、汗びっしょりになってバイクを押して行った。
「大変なら、私たち大丈夫だから、いいよ?」
冴島が気づいて言う。
「いや、そろそろ駅だから、バスターミナルまでは送っていくよ、いい運動になるし。」私は強がりを言ったが、腕、肩、足の筋肉が悲鳴を上げていた。そんなことをしているうちに高田馬場駅が見えてきて、雑踏の中で私は二人に言った。
「この辺までくれば平気だろ、じゃ、そろそろ帰るから。」
「スピード出しすぎで捕まらないようにね。」
と冴島。恭子は私のほうを見て言った。
「本、貸してね。今月お金があんまりないから・・」
大学図書館に行けばいくらでも読めそうだと思ったけれど、いちいち言うのが面倒だったので、はいはい、と答えて車道に向けてバイクを押していく。
夜の人ごみでエンジンをかけ、私は赤羽へ向かってだらだらと走っていった。家に着いたら0時を回っていたのすぐ眠ることにした。明け方になってやっと帳が下りてきた。空は紫色に染まっていた。