断片 だいたい6くらい

私はそう念を押してから、大隈講堂のほうに戻りバイクのエンジンをかけて大久保キャンパスに向かって坂を上ってゆく。急いで実験室に向かう。その日の実験は19時ころまで続き、そのレポートは翌日の10時までだ。実験の日は大抵徹夜でレポートを仕上げるのが常だった。その日も実験が終わると図書館でいくつかの専門書を借りて明け方までパソコンに向かってレポートを仕上げた。

第3章

本を貸してから2週間ほどしたある日、恭子から電話があった。授業中で出られなかったので、私は授業が終わると恭子に電話した。
「もしもし、電話くれたけどどうしたの?」
「いや、授業が終わったから、コーヒーでも飲まないかな、って誘おうと思って。」
恭子は続けた。
「あなた、本のこととか好みが合いそうな気がしたから、すこし話したいと思ったの。」私はちょっと考えて返事をする。
「あの・・・レポートの相談?」
恭子はすこしむっとした声で答えた。
「ちがうって。ただこの前みたいに話がしたかっただけ。失礼ね。」
「ごめん、ちょっと・・疑ってごめんね。」
私は謝った。
「俺も今授業が終わったところだから、行くよ。どこにいるの?」
恭子は機嫌を取り戻して言った。
「大隈講堂に今からいくから、そこまで来て。」
「わかった、10分くらいで行くから。」
私はそういって、バイクの後ろに鞄をくくりつけた。エンジンをかけて本部キャンパスまでの坂を下っていった。本部キャンパスの近くに行くと、たくさんの学生が思い思いのことをしていてやはり時間がゆっくり流れているような印象を受けた。理工学部ではあまり見られない「学生らしい」ことなのかな、と私は思いながら、バイクを止める。大隈講堂の階段に座り込んで、周りの景色を見回しながら待っていた。しばらくするとコートをなびかせて汗をかきながら恭子が走って来た。
「早いね、ずいぶん。」
恭子が肩で息をしながら言う。
「教室から急いできたのに。大久保キャンパスからだからもっとかかると思って・・」
「バイクだからすぐだよ。こっちのキャンパスは広いからね。」
そう答えて恭子の周りを見回す。
「あれ、冴島はいないの?」
いつも恭子とセットになっている冴島がいないので尋ねた。
「うん、今日は休み。とりあえず、コーヒーでも飲もう。」
そういって恭子は私を先導して近くの喫茶店に入った。なんでも、あるサークルの拠点になっているらしいが今日は静かだった。
カプチーノ二つ。」
恭子は勝手に注文を告げる。
「ここのカプチーノって美味しいのよ、まぁ飲んでみて。」
そういって恭子は窓の外をぼんやり見ている。手元には私の貸した「罪と罰」があった。しおりを挟んであるが、まだ上巻の初めのほうらしい。
気まずくなって小声で話しかける。
「そうなの。思想的なこととか、長い台詞が多くてなかなか・・・」
私も数ページに渡る主人公の独白についていけなくて、買ってからしばらく本棚に眠らせていた。ある時暇に任せて読み進んでいったら、ぐんぐん引き込まれたのを思い出した。「その辺を越えると、今度は読むのやめられなくなるよ。徹夜で読んだもん、ほんと、引き込まれちゃって。」
私は自分も同じように読み進めなかったことを話して、そう言った。
「そうなんだ、じゃあそれまでがんばって読もう。」
小さく頷いて恭子は答える。
運ばれてきたカプチーノは確かに美味しかった。コーヒーには結構口うるさく、しばしばデパートの地下でいくつか豆を買ってブレンドしたりしていた私だったが、自分で作ったブレンドとは一風変わって酸味の少ない、深くローストされた香りが気に入った。
「美味しいね、ここ。」
素直な感想をのべる。。
「そうでしょ、ちょっときつい味だけど私はこういうの好き。」
「へえ、珍しいね。」
なんとなく親近感を感じた。
「あ、この曲好き。」
恭子が言うので耳を澄ませて聞くと、「ヴォカリーズ」の主旋律が聞こえてきた。
「へえ、俺もこれ好きだよ、クラシックなんかも聴くの?」
「うん、というより何でも聴くよ。音を楽しむって書いて音楽、でしょ。楽しい音が聴ければジャンルなんてどうでもいいの。」
「だよな、おれも常々そう思ってた。でも、クラシックを聴いてるとか言うとなんか周りが引くんだよね・・」
「そういう人たちは音を学ぶ、で『音学』になっちゃってるんだよ、きっと。」
そんなきっかけから、音楽のことを夕方まで話し続けることになった。カプチーノをおかわりしながら、思い思いに音楽に対する思いを語った。恭子が私と同じで、ほぼノンジャンルにいろいろな曲を聴いている、ということがわかった。私が、CDが1000枚以上あるというと大げさに驚いた。
「へえ、まるでCDショップみたいだね。」
「うん、高校のころからバイト代のほとんどをCDに使ってたからさ。あとオーディオも結構いいの揃えたよ。」
「私は、レンタルしてCD-Rにダビングしてる。安上がりだし・・」
時間が過ぎて、夜の帳が下りてくる。コーヒーを飲みすぎたせいか胃が痛い。店を出ると、冷たい空気が沈んでいるようだった。
「その本、かなり面白いからがんばって読んでみてよ。」
私は別れ際に言った。恭子は手をあげて大きく振ってそれに答えた。私はバイクのリアシートに鞄をネットでくくりつけて。セルモーターを回す。エンジンが冷えているせいか、なかなかアイドリングが落ち着かない。チョークを引いてエンジンを温めながら、その小さな変化に季節の移り変わりを感じた。しばらくしてチョークを戻すと、エンジンは1200回転で低い音をたてて安定する。私はバイクにまたがり、ジャケットのボタンを閉じて、明治通りを走っていった。池袋駅の前を通り過ぎるとスピードを上げて自宅へと急いだ。寒さにふるえた。西巣鴨の駅前で17号に入って、さらにスピードを上げると、まもなく自宅に到着した。やっと自分の部屋に戻ると、まずエアコンで部屋を温め、それからCDラックからヴァイオリン曲のCDを取り出してTEACのCDプレーヤーにセットする。SANSUIのアンプのボリュームを上げてヴォカリーズを大きな音で聴いていると、さっきまで音楽のことを夢中に話していた恭子の笑顔と、カプチーノの苦味が浮かんできた。ラフマニノフの書いたメロディは哀愁を感じさせる。近づいてくる冬を想像した。