第7くらい(いい加減)

次の朝、目を覚ますとすでにお昼前だった。私は急いで支度をして高田馬場を目指す。授業にはなんとか遅れずに出ることができた。そしてその日の授業がすっかり終わったころは、すでに空は暗くなっていた。私はジャケットの襟を立てた。冬は嫌いだ。すぐに暗くなるし、陽の光は頼りない。元気がわかない。バイク置き場に着くと、恭子が私のRF400の傍で背中を丸めて立っていた。私を見ると、大きく手を振って笑顔を浮かべた。私は恭子の傍に走りよった。
「ひょっとして、待ってたの?寒い中・・どうしたの?・・」
私が途中まで口にしたのをさえぎって恭子は笑っていった。
「私も授業があったから、今来たばっかりだよ。」
「『私はソーネチカの愛こそ真実の愛だと感じる。しかしこのような無償の愛は母親のそれ以外見たことがない』って書いてあったね。私も同じように思ったよ。でもこの時代には、そういう懐の深い人がいたのかもしれないね。」
恭子に貸す前に、すこし細工をして、一言裏表紙に鉛筆で書いておいたのは私だ。あの時は、はたして恭子が私の書いた感想を見るものだろうか、と思ってすこしいたずらしておいたのだった。
「じゃあ、これはお返しします。」
恭子はそういいながら、鞄から「罪と罰」を取り出して私に返した。刹那、冷たい風が吹き抜けた。ふるえを感じた。
「せっかくだから、夕飯食べて帰らないか?」
私は恭子を誘った。
「んー、そうね。この辺だと馬場の駅の向こう側にジョナサンとバーミヤンがあったかな。ジョナサンのほうがいいな、コーヒーが美味しいから。」そういいながら、バイクを起こしている私を見て言った。
「私、歩いて行ってるから、バイクで先に行ってていいよ。」
「いや、一緒に行こう。これは押していくから。」
私はそういって、赤いバイクを押して歩き出した。
「寒いし、体があったまるからちょうどいいかもしれない。」
そんな虚勢を張りながら歩き始めたが、早稲田から高田馬場へ向かう上り坂で早々にギブアップしてしまった。
「ごめん、やっぱりこれ、重すぎて無理・・」
そういって、バイクに乗って先に行くことにする。ジョナサンに到着して、恭子に先についた旨を電話して席を確保しておいた。しばらくすると恭子がやってきて、入り口できょろきょろしている恭子を手招きした。
「歩いてきたら、体が暖まったよ。まぁさすがにあんな大きいの押して歩くのは無理ですけど。」
頬を赤くした恭子が席に着いた。ロングコートを暑そうに脱いで、隣の席に畳んだ。恭子がひと段落落ち着くのを待った。
「そういえば最近は冴島を見ないけど、どうかしたの?」
私が尋ねると、恭子はとぼけるようにあらぬほうを見ながら言った
「最近、予定が合わないからさ。でも電話とかメールはしてるよ。」
冴島が気を使っているのなら上出来だ、ふとそう思った自分に軽い驚きを感じた。その思いを反芻していると、だんだん自分の素顔が見えてくる。認めるわけにはいかないな、と思った。
「あの時代のペテルブルグの街模様が、すごくリアリティあるよね、どう思った?読んだとき。」
恭子が尋ねる。唐突に私は現実に引き戻され、すこし戸惑った。
「う、うん。あ、『白夜』読んだんだよね、あれとすごく共通点あるよね。」
私は考え無しにいい加減に回答する。
「そう?『白夜』だと、主人公がすごく極端だから・・」
私は一息ついて、思い出しながら話す。
「うん、そうだけど、ペテルブルグの描写はだいたい一致してるよね、白夜の場合は生活ぶりのほかはほとんどナースチェンカに対する心情を描写してるけど、罪と罰だともっと広く、街の隅々までの描写をしてると思う。あの、お通夜の場面、面白かったでしょう?そのほかにも、ラスコーリニコフを通じて作者の一つのテーゼを披露している作品だと思ってる。本気じゃないだろうけれど・・」
コーヒーをすすって一息ついて、私は先を続けた。
「前半はそういう感じだけれど、後半に入るとテーマが変わる。ソーネチカが・・」
私が躓きながら話しているのを、恭子は真剣に聞いている。時に頷いたり、時に考え込むような顔をしたりしていた。
「最後の6章、私涙が止まらなかった。読み終わってから、6章だけ読み直しちゃったよ。やっとラスコーリニコフが本物の愛を理解する場面では涙が出てきた。あんな素晴らしい女の人がいたのかな、神様みたい」
恭子が言った。私は大きく頷いた。同じように感じる人が見つかったことが嬉しかった
「俺も、じつは同じ。泣けてきて仕方なかったよ。」
ソーネチカは自ら進んで身を汚し、罪人となったラスコーリニコフにも無償の愛を送り続けた。彼がソーネチカの足元に崩れ落ちる場面では涙を堪えることができなかった。
「でしょ。ページに涙の跡があったよ。」
そういわれて、私は戸惑った。赤面するのを感じて、おしぼりで顔を拭いてとぼけた。そうしていると恭子は小さく笑いながら首をかしげて言った。
「うそ。読みながら想像しただけ。」
「なんだ、からかうなよ・・まぁでも、読んだのが高校生のころだったからすごくたくさん泣いたのを覚えてる。」
そう言ってしまうとすっきりした。そんな私を見ながら恭子は微笑んでいた。今まで見ていた恭子の笑顔に、いっそう温かみを感じる笑顔だった。そんな笑顔を見ていると、私の強がりで見栄っ張りな何かが氷が音をたてて瓦解するように解けていくのを感じた。恭子には素顔のままでいよう、と思った。