夢七夜

第五夜


人の涙など、何とも思っていなかった。ただ、やりたいことをしていれば幸せだった。
飲み代ほしさに、泣き叫び抵抗する小さな子供の指を切り落として、送りつけたこともあった。ギャンブルの金のために、頼りない足で追いすがる老人を殴り飛ばしたこともあった。
そんな俺が、うつむいていた。涙を流す年老いた母に目を合わせられなかった。
審判の場に突然現れた母の顔は、覚えているより疲れ切っていた。


涅槃か、畜生界か、それともまた人として・・・
それを決めるのは、目の前で浮かんでいる仏のような顔をした爺なのだろう。閻魔というやつはもっと恐ろしげな顔をしていると、小さな頃から聞かされていたので拍子抜けしたものだ。どちらにしても、散々なことばかりしていた俺なんかの行く末は決まっている。そう思った。
そこに、この爺が母を呼び出したのだった。その涙を見せたのだった。そして爺は俺に宣告した。


それから45年の間、何もいない闇の中にいた。
怨嗟の声やすすり泣きの声、苦痛の叫びが絶えず聞こえる闇を魂はたゆたうていた。ただ、それだけの時間と空間だった。おれは35だったが、とうとう80歳を涅槃の中で迎えることになった。
そのときふと、感覚がなくなっていった。これが死ぬということなのだろう、そう思った。


そして、今までの漆黒は徐々に紫色の霞に変わって、二つの分かれ道が見えてきた。道には案内らしい、やれた木の矢印が立ててあったが、そこには何も書いてない。片方は遠くに白い光の見える道で、もう一方は暗がりの中に灯火の浮かぶ道だった。案内されるわけでもなく、自然と暗い道を選んで進んだ。


進んでいるうちに、手足の感覚が戻り、そのあと音が聞こえてきた。まもなく光が戻った。
初めて目の前に見えたのは、白衣をまとったあの爺だった。
「生きて、贖罪しなさい。」
そういって爺は立ち去っていった。刹那、それまでの記憶は消えていった。そのあとに現れたのは、喜びの涙を浮かべた3人の男女だった。


5年が過ぎた。髪と睫毛がきれいな、幸せな家庭の長女として不自由することなく育っていた爺の言った「贖罪」の意味を知るのはそれから8年が過ぎてからだった。