秋の夕暮れに その8

今際に恵は「音楽が聴きたい」と、消え入るような声で囁いた。午前2時30分。声を出すのも、やっとのはずだ。主治医は恵の病状を詳しくは告げてはいなかったが、私はあなたの見かけより強い心を信じて、その状況をお話しました。あなたは自分の病状が、考えていたよりも少しだけ悪いことにすこしショックを受けた様子でしたが、ほどなく受け入れることができたようでしたね。音楽がひとときの安らぎになれば、と私は思った。
「何がいい?」
私は尋ね、声を聞き取るために顔を近づける。あなたはやはり小さな声で、
モルダウ」と答えた。
困ったことに、そのとき私はスメタナのCDを持っていなかった。当然お店は閉まっている時間。私は友人に電話をかけてお願いした。5人目に電話をした友人は、普段冷静な私を知っているからか、突拍子もない話を真剣に聞いてくれた。また幸運にも彼は「我が祖国」のCDを持っていた。3時5分、私はタクシーを飛ばして、横浜市に住む彼の家へむかう。こうしている間にも恵の時間は無慈悲にも駆け足で進んでいるに違いない。やがて東名高速を横浜青葉で下り、わずか35分で彼の家に着いた。そして1枚のCDを受け取って再びタクシーを飛ばす。しかし、正直なところ、病院へ戻るのは怖かった。恵は果たして、この「モルダウ」を聴いてくれるだろうか・・
病室へ戻ると、2人のナースと主治医がベッドを囲んでいる。。私が声をかけても、苦渋に満ちた表情は変わらない。半ば自分を慰める気持ちもこめて、CDをプレーヤーにセットし、「2」のボタンを押す。

CDをスタートしてから1分03秒が過ぎた。「モルダウ」の主題が悠久の流れを想起させる。ふとあなたの顔に目をやると、気のせいか、今までの苦痛の表情がやや薄れているように見えたのです。そのうち、CDプレーヤーの表示が11分を過ぎた。曲はマイナーからメジャーに転調する。このとき、その目は見開かれることはなかったが、あなたよく私に見せてくれた微笑を浮かべているように見えました。そして13分30秒が過ぎ、「モルダウ」はその壮大な流れに幕を閉じた。あなたは相変わらず、静かに微笑を湛えている。
2日後の早朝、あなたは唐突に私たちに別れを告げましたね。その美しい微笑を湛えたまま、あまりに静かに、そして脳神経外科医の予想より遥かに長く生きた後に・・・

それを聞いたとき、抵抗なく受け入れることができた。
初めて涙がこみ上げたのはそれから2日後の朝、新聞を読んでいる最中だった。特にそのことを考えていたわけでもなく、何の前触れもなかったが。ただ、涙だけが私の意思とは無関係に滂沱としてあふれた。
そして現在、私のCDラックにはクーベリック指揮の「我が祖国」が並んでいる。毎年あなたがいなくなった日になるとこの曲を聴き入る。こんなことは単なるセンチメンタリズムであることはわかっているのだが。

このとき私の眼前には、モルダウの悠久の流れと共に、あのときのあなたの微笑が圧倒的なリアリティを伴って鮮やかに浮かび上がります。

第3章 春の息吹